2016年3月12日土曜日

怒りについて

洗礼を受けたのが2002年ですでに13年半を過ぎました。

だからといって、昔ながらのどうしようもない、怒りを覚える傲慢さが、ときおり私の中に湧き上がってしまい、制御不能状態になることがあります。後味は悪いのですが、その時は、そこへまっしぐら、怒りをコントロールできません。

イエスは十字架刑に甘んじたのです。それも、私のようなものたちのためにも。

私が怒りに浸っているときは、許せない気持ちに浸って、怒るのが当然、どこが悪い、というような、自分側からは、正当なことだというような気持ちになりきっていて、まったく、悔い改めるどころではありません。

自分は信仰を持って変えられた、自分は十分と自分を正当化して、自分の感情は、そう間違っていないと思い込むフシがあります。

イエスは十字架刑に甘んじたのです。自分の罪ではないことのために、罵倒されても、甘んじたのです。そして、以降の使徒たちにもそれに近い生き方があったようです。漁師だった Peter ペテロは逆さ十字の刑で生涯を終えています。

私の怒りに身を任せる姿勢は、ペテロの生き方とは程遠いものであることは確かですね。さて、どうしたものか。

私は、こういう風な人間ですから、日本に行ったら、さらにもっと自分の昔から持っていた悪いところが、もっともっと表れるのではないかという、心配があります。アメリカに居るほうがまだ、信仰のいい影響の助けで減っているのではないかと。